ワンピースのNHKクローズアップの再放送は、まだ無いようです。
NHKオンデマンドは、有料放送の為
コラムに大変、興味深い、視点を変えた解説をされていましたのでご確認下さい。
ココから↓
先日、NHK「クローズアップ現代」が、漫画『ONE PIECE』を取り上げていた。題して「“ワンピース”メガヒットの秘密」。この漫画単行本の最近のとんでもない売れ方は、社会現象としてNHKも放っておけなかったようだ。私もニュースとしては知っていたが、番組の中で紹介された紀伊国屋書店の分析結果には大いに驚いた。それによれば、『ONE PIECE』単行本購買者の88%は19歳以上の大人だという。まさか、これだけの大部数を刷った漫画の購買者のほとんどが、子どもではなく大人だったとは。
「クローズアップ」によれば、『ONE PIECE』の中に、「夢を本気で語っても笑われない」、あるいは、「本音で語ることのできる」「仲間」との間の痛快な人間関係(「人とのつながり」)を読み取って感動する人が非常に多いとのこと。「クローズアップ」は、基本的にこの現象を90年代末以来の閉塞感が漂う日本社会の状態の反映として読み解こうとしていた。番組の中では、この漫画に救われたという人の切実な声がいくつも紹介されていて、目を見張るものがあった。彼等がそもそも救われなければならないような状況は、昨今の閉塞する日本社会が生んだ、そして「仲間」や「人とのつながり」こそがそこからの救いの糸口になる、そういうことを、番組は、この現象で改めて確認したかったようだ。「仲間」は、夏のワールドカップ・サッカーの日本代表チームが起死回生の活躍をした原因を語る際のキーワードでもあった。「仲間」や「人とのつながり」に希望を託そうとする気持ちはよくわかるし、それらは善きものであり美しいものだ、という考え方にも私は基本的に共鳴する。ただ、「仲間」や「人とのつながり」のあり方には多様性があって、実際に関係を構築して試行錯誤することなく、一概にスローガン風に唱えてみても、より深刻な失意や挫折を生み出すだけに終わらないかと心配だ。
私にとって、「クローズアップ」の「“ワンピース”メガヒットの秘密」の中で最も印象的だったのは、作者の尾田栄一郎と鈴木敏夫(ジブリのプロデューサー)のラジオ番組での対話の一コマだ。
鈴木 『ONE PIECE』読んでね、最初の感想、任侠ものだね、はっきり言うと。
尾田 ・・・大好き(なん)です。
鈴木 (あなたはやっぱりああいうのが)好きなんだ
「クローズアップ」のカメラは、さらに、尾田不在の仕事場に乗り込み、机の周りに並んだ何巻もの任侠もののVHSビデオ(『任侠清水港』、『次郎長三国志』・・・)を映し出していた。『ONE PIECE』を任侠もの(あるいは人情もの、浪花節)と考えるのは鈴木敏夫だけの観点ではない。しかし私はメガヒット『ONE PIECE』=任侠ものという見方に思わず唸ってしまった。というのは、日本社会では「侠」は、現実としても、物語としても、人を惹き付ける概念としては、極めて微弱なものになっていると漠然と考えていたからだ。「クローズアップ」は、次郎長や「仁義なき戦い」(高倉健)のような任侠ものを、「古きよき日本」や「七人の侍」(黒澤明)や座頭市シリーズなどの「名作」と結びつけて描いていた。尾田栄一郎の「日本人の魂を描いていこうと思います。」という発話も紹介していた。そうしたものを考え合わせると、『ONE PIECE』の購読者のほとんどが子どもではなく大人だった、という点もある程度納得できそうな気になってくる。確かに、任侠ものの核心的な魅力というものは、実はなかなか死に絶えていないのだなと。
しかし、果たしてそれは日本社会の閉塞感と関係しているのだろうか。
中国社会を対照させて考えてみよう。中国には、武侠ものという確固たる人気ジャンルがある。近年は映画やTVドラマの特にワイヤーアクションを多用した「武」の方に(「侠」よりも)重点を移動させる傾向も見られたが、日本の任侠ものにもたいてい武闘はつきものだったし、社会の中央や主流から外れたアウトサイダー(ヤクザ者)が本来主役であるという点も共通している。(中国では“侠”が発展して“大侠”になり「ヤクザ者」でなくなる傾向があるが。)ところが、深刻な社会問題はあっても日本のような閉塞感がない昨今の中国社会において、「武侠」ものの人気が下がったという話は聞いたことがない。そう考えてみると、「侠」や「情」の希求を社会的な閉塞感や経済的な状態と直接関係付けるのは、あまり合理的な説明とは言えないような気がする。
また、『ONE PIECE』は中国でも人気のある作品だから、この作品のよさを「古きよき日本」の中に囲い込んでしまうのは考えものだ。ただ、「任侠」ものということなら、中国ではそれに近い「武侠」ものが愛されているから、「侠」という点でつながりは見えてくる。
『ONE PIECE』の主人公ルフィは手足を自由に伸縮させることのできる「ゴム人間」という設定になっている。この種の脱現実性を物語の中に仕込むことは、今や、漫画・アニメやライトノベルを中心に、文芸作品全般の物語設定の王道にもなりかねないような勢いだが、この脱現実性は、読者を現実から守るコクーンとして、読者の心理的救済に一役買っている。自分を傷つけるような切実な現実からかなり離れたところに身を置いたまま、「仲間」や「人とのつながり」の有難さに感動することで、現実の中の可能性にまたかけてみようか、という気にもさせられる。中国を代表する武侠小説家金庸の作品も、時代背景などは往々にして実際の歴史を背景にしているものの、仙術や法術を使うキャラクター中心で考えれば、基本的には脱現実性を肝心なところに仕込んだファンタジーと言っていいだろう。
逆に言うと、「侠」は脱現実的な物語の中でその魅力をより効果的に発揮することができる。というのは、「侠」(あるいはその基礎となる「情」)は基本的に、顔が見える間柄同士の個別的な人間関係に基づく。その人間関係の中では、仲間との間の濃密な「人とのつながり」を享受することができる(それなりにつらいことはあっても)が、彼らの注意が向けられないような平凡な人間(その他大勢の良民)は、往々にしてなおざりにされたり、とばっちりをくらったり、時には犠牲になったりする。「侠」は、遠い世界のお話として眺めるならば観客として感動できるが、とばっちりを受けるようなすぐそばにいると、なかなかそうもいかない。「侠」の痛快さは、脱現実的な設定があればあるほど、より安全に、かつ思う存分享受できるようになる。
感想:
任侠ものだけでは、さすがに漫画・アニメとしては、限界がありますが、
ここまで、多くの人の心に感動を与えているのは、
豊かになった世の中で、特に日本を含め先進国に
夢やロマンを追い求める事! 今不足しがちなものを埋めているような気がします!!
海賊の冒険に「情」や、8つの徳目に近いことがベースになっているからだと思います。
あくまでも、感想です!
わざわざ寄せてくださってありがとうございます。
返信削除本文をゆっくり、そして何度か味わいながら読むつもりです。
また思いついたことがあれば、遠慮なく書かせてもらいます。
>yamasanさんへ
返信削除是非、お時間のある時にご参考にお読み下さい。